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Once the genie had been let out of the bottle back in the 1960s, the vapours of Dr. Martens' rebellious spirit could not be contained and the boot seeped into every corner and crevice of youth culture.

The Full Story

The history of subculture is a chronicle of being different. Back in the 1950s, when the first generation of teenagers fired up a youth revolution, their goal was to look and behave differently to their parents. Previously, young people had been stylistic carbon copies of their elders. But with the advent of first-generation rock 'n' roll and also Teddy Boys, a generational schism cracked open that would never again be rendered shut.

Griggsファミリーは英国の靴づくりの中心地、ミッドランドのノーザンプトンで1901年から製靴業を営み、事業を確立し、成功を収めていました。
一見、よくある家族の歴史に思えますが彼らは周りとは少し違っていました。周りの保守的な人々に比べ、彼らは自由な思想を持った一族でした。
彼らは、その自由な思想で後に若者の精神を象徴する識別子を生み出すことになります。

1915年、ドイツのブラウンシュバイクで眼科医の息子として生まれたクラウス・マルテンス。
この年、第一次世界大戦が開戦しました。マルテンスは医学の道へ進み第二次世界大戦では軍医として戦火を生き延びます。
1948年、33歳になったマルテンスは医師として身を固めるべくミュンヘンに移りますが、そこには焼けだされた医者が大勢いました。彼はその状況をみて開業をあきらめます。マルテンスは10代の頃、学校が休みになると故郷で靴屋を手伝っていたこともあり製靴を少しだけ知っていました。それよりも深刻な物資不足のなか、履物が必要とされていました。マルテンスは製靴の為に様々な策を講じますが、数々の問題がありました。アッパーに使う革は廃棄される軍用コートを流用しました。素晴らしいリサイクルです。
ですが、ソールに使う為の分厚い革がどうしても手に入りません。軍が革等の資源を管理していたため、簡単には手に入らなかった様です。

マルテンスは10代の頃におこしたバイク事故で足に後遺症を持っていました。
更にスキー事故の為に膝を痛めていました。この時の革不足・足の後遺症・膝の怪我、3つの問題を一気に解決する方法を探していました。これらを解決するソールの素材を革以外で見つけなければいけません。
廃棄タイヤを利用するなど、様々な実験を重ねるうちにマルテンスはヘルベルト・フンクと出会います。フンクはプラスチックの新技術を学んでいました。マルテンスとフンクはこの3つの問題について議論を重ね、新しいソールの共同開発に着手します。また、フンクはエンジニアとしての知識と技術だけではなく、ルクセンブルグの国籍を持っていたことで戦後のドイツの商業制限にひっかかることなく商売が出来たのも彼の残した大きな功績といえます。

二人は油を主成分とするPVCとよばれる新しい素材に着目していました。飛行機部品や電気配線のラッピングに使われている素材です。再びリサイクルの始まりです。
軽量化と原料節約の為にソールにはエアクッションを挿入し、ヒールを蜂の巣構造にしました。ソールは期待通りの性能を発揮し、世界で初めてのエアクッションソールが誕生しました。これはまだ、ドクターマーチンのエアクッションソールとは言えない様な代物でしたが試行錯誤を繰り返し改良されて行きます。戦後の快適とはいえない靴しかない中、二人の作る靴はすぐに大衆から好評を博し1952年、二人はゼースハウプトに工房を構えるに至ります。
50年代、200種類にも及ぶデザインが作られましたがその購買者の8割が40才以上の女性でした。ドイツマルクが発行されてからは生活も以前より便利になり、ビジネスは順調に成長をみせていました。
1959年、マルテンスとフンクは更なる事業拡大を図り、海外の貿易雑誌「British shoe trade ブリティッシュ シュートレード」に製造パートナーを探す広告を出します。

1959年、「British shoe trade ブリティッシュ シュートレード」に掲載された広告を目にし、独創的なソールに魅せられた人物が居ました。
それが1901年からノーザンプトンで製靴メーカー R・グリッグスを営むビル・グリッグでした。当時、英国の靴市場が熾烈を極める中、この競争に勝利するため村の製靴を営む仲間をあつめ、ウォラストン・バルカナイズ社を設立していました。
革新的な物を求めていたビル・グリッグは、マルテンスとフンクの発想に感銘をうけ、すぐにコンタクトを取ります。
二人はビルに会う前に、既に2社との工場の交渉が決裂しており経済的な破綻を余儀なくされていました。しかしマルテンスとフンクは二人の発明した靴が英国全土に広まることを期待しており、一社に独占製造権を与えることに難色を示していました。しかしウォラストン・バルカナイズ社は21もの靴製造業者と取引があることで一年間のエアクッションソールを製造する特許を獲得することができたのです。
結果的にはマルテンスとフンクを満足させる結果をだし、この権利はR・グリッグスのものになりました。

その後、エアクッションソールの原理をもとに数々の改良を重ね、対摩耗性・耐寒性・アシッドにも非常に強く柔軟性に富んだ独自の成分配合を生み出します。
グッドイヤーウェルトと呼ばれる高級な靴作りに用いられる堅牢な底付け技法は縫い目に割れ目やヒビが入るなどの理由からラバーなどの天然素材には無理とされていましたが、開発されたソールはこの問題をク
リアします。エアクッションソールはR・グリッグスの持つ英国靴作りの技術との融合により従来の製靴法を更に進化させた他に類をみない、新しい靴として世に出ることになります。
全く新しいその靴は、その後世界の靴市場に大きな影響を与える事となります。

1960年4月1日、最初の8アイレットブーツが生産ラインに乗ります。
履き心地を良くするために踵に改良を加え、酷使に耐え得る労働靴として保守的なデザインを施されたブーツは、名前も英国風のDr.Martens(ドクターマーチン)と名付けられます。
堅牢なレザーアッパー、一目でDr.マーチンとわかる様にと特徴的な色のoxblood・丸みを帯びたシルエット、イエローステッチに [AirWair]と記されたヒールタブ、そしてエアクッションソール。
二人が発明したエアクッションソールはビルにより「Air Wair」と名付けられ「Bouncing Soles -弾む履き心地のソール」を謳い世に登場します。
ドクターマーチンの代表的なモデルとなる1460の誕生です。「1460」と云う商品コードは、このブーツが1960年4月1日に世に出た事にちなみつけられました。

60年代、ドクターマーチンが発売されると郵便局員、工場労働者、建築現場作業員、警察、救急隊員、地下鉄職員といった当時、ブルーワーカーと呼ばれていた労働者から多大なる支持を得ます。 耐油性、耐酸性、耐摩耗性から工場や作業現場では欠かせない存在となり、一日中歩き回る警官達はその履き心地から、他に例えることの出来ない、評価ができない程の貴重な存在と評価しました。
これを受けてポストマンシューズとして有名な3ホールのダービーシューもこの頃から生産が始まります。

英国労働党の社会主義者トニー・ベンはドクターマーチンを履いた最初の有名人となります。
ベンは英国上流階級の子爵でありながらも労働者の権利を擁護し、あらゆる問題解決に努め、労働者や政治活動家から絶大な支持を得ていました。
60年代、英国では労働者の権利を訴え多くのデモが行われていました。彼はボタンダウンのシャツにグレーのスーツ、黒い3ホールのドクターマーチン1461というスタイルでデモ行進に参加し、そのスタイルは彼を支持する共産主義者や学生労働者に広まりました。盛んに行われるデモには、やがて郵便配達人、輸送組合、そして多くの工場労働者が参加するようになります。
デモに参加した多くの人たちはドクターマーチンを履いていました。その頃に ドクターマーチン=労働者の象徴 というイメージが形成されたといっても良いでしょう。
ドクタマーチンは労働者階級の人々に受け入れられ、その人達の精神や仲間を表すサインとして履かれていたのです。

今でこそ不可分な関係といえるDr.マーチンとユースカルチャーを決定的に結びつけた出来事。
60年代後半、ロンドンのイーストエンドに頭を剃り労働者階級の象徴であったブーツとジーンズを身につけたギャングが登場します。
それは初期のMod'sから派生したスタイルでした。スキンヘッズとよばれる彼らは足元をDr.マーチンで固めていました。
英国でのスキンヘッズは反社会的で荒っぽいことで有名でした。我々は彼らがDr.マーチンを履くことに少しの懸念を抱いていました。
しかし、スキンヘッズがDr.マーチンを大衆の目に印象づけたことで、その後50年以上にわたり続くユースカルチャーとの深い結びつきのきっかけになったことは間違いありません。

そして、Dr.マーチンとミュージックカルチャーを結びつけた出来事。THE WHOのピート・タウンゼントがDr.マーチンの8ホールを履いたことで音楽の場でもアイコンとして若者に取り入れられる様になりました。フラワーパワーやサイケデリックがもてはやされている時代、彼は他のミュージシャンとは違い、労働者階級の代弁者とし多くの若者に支持されていました。また、ステージ上での派手なパフォーマンスも若者を惹き付けたようです。
そのスタイルは後のミュージシャンにも引き継がれていきます。
また、スカを好んで聞いたスキンズやルードボーイから2toneスカやパンクスへと、そして彼らのファンにも浸透していきました。

数十年にわたり様々な時代に様々な解釈で、独自のカスタムを施し、ドクターマーチンはファッションに、ムーブメントに取り入れられてきました。
パンクスは反体制を謳うとき、戦いの場でドクターマーチンを履きました。
2TONEのスーツスタイルには磨き上げた3ホールは重要な付属品でした。

ブリットポップではキッズが大人達への抗議を謳うときチェリーレッドの8ホールは彼らの仲間でした。
このようにロック、パンクス、スカ、オイ、グレボス、グラムロックと、今までの靴の歴史の中でもDr.マーチンほど広くカスタムし、様々な意味を持って履かれた靴はないでしょう。

80年代、MTVが巻き起こした社会現象は計りしれません。音楽業界のみならず、ファッション、コスメ。
映像から伝えられる情報は瞬く間に世界に発信されます。ジャンルを超え、反骨精神の象徴としてその地位を築いたドクターマーチンはあらゆるミュージシャンの足元を飾り、世界中の若者達を魅了していきます。

90年代から新世紀、様々な技術の革新的な発達で全てが大きく変わりました。
インターネットサービスは開始後、わずか18ヶ月で5000万人のユーザーを獲得しました。
現在、多くの若者はストリートよりインターネットのエーテルに集います。
様々なカルチャーが存在する現代、多くの人々は「属している」ことを意識せず、受け継がれた様式・スタイルにとらわれず新しい何かを創りだそうと自由な感性で取捨選択します。
必然的に、伝統的なスタイルも異なったものへと変化して行くこともあります。それは避けたくとも避けられない、この時代を生きて行くブランドが通るみちでしょう。
しかし、このうねりの中でも生き抜いて行く為に本物であること、本物で居続けること、そしてクリエイティブであることが必要です。

エアクッションソールの開発者であるクラウス・マルテンス、R・グリッグス ファミリー、これまでに存在したあらゆる若者、サブカルチャー、ユースカルチャー。
異なった思想、ライフスタイルを持つ、全く異なって見える彼らの一つの共有分母。「人とは違うことがしたい。人とは違う様に見られたい。」ということ。

この50年の回顧のように、この後もこのようなパーソナリティを持った人々によって(自由で、クリエイティビティな人々により)歴史は紡いで行かれます。
そしてまた、若者達はクリエイティビティと将来の為に、先人の足跡と足音から何かを感じ・学んだ時に彼らはドクターマーチンを履いて新しい歴史を紡いでいくのかもしれません・・・。